2013年12月18日

シアワセのカタチ

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ずっと思っていたことだけれど、
カタチのあるシアワセって好きだった。
もらった指輪だったり、ちょっとしたものだったり
それに関連したものを見るとその時のシアワセな気持ちがよみがえるから。
大切な人にモノを選ぶ時もシアワセな気持ちになる。
それを喜んでもらって使ってもらえていると、
カタチとしてインプットされているのかなと思う。
今もそれはあまり変わっていないかもしれない。

この言葉がひっくり返ると 一般的には意味が大きく変わってくる訳で…
シアワセのカタチって…
って誰かに聞くと、大抵
「愛するのがシアワセか 愛されるのがシアワセか」と返ってくる。
もちろん愛し愛されるのが理想型だけれど、
人間には比率がある。
自分と同じ分だけ相手が自分のことを考えていることは
とても稀であるということも知っている。
その比率の多さによって 愛してるのか愛されてるのかに分けられるのかもしれない。

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愛してる比率の高い人は、副作用として愛を押し付ける傾向に陥り
愛されている比率の高い人は、副作用として愛に麻痺して孤独を憧憬する
最近自分を分析していたついでに出てきた答え。
もちろんそれが世情への結論にあてはまるとは思わないけれど
少なくとも私の周囲で巻き起こるいろんなことを俯瞰で見るとそんな結論が出てきた。
自分自身 どちらの傾向にあるかと言われると
前者の方だと思う。
真の孤独の恐ろしさを知ると、孤独を憧憬している人がとてもナルシストに見えてくるのも
正直なところない訳ではない。
と同時に、真の孤独など知る必要はあまりなく
むしろ知らないでいいのならそのまま生涯を終えた方がよいと思うので
どちらがシアワセなのかというと やはり後者なのかもしれない。

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クリスマスカラーに彩られたスカイツリーを先日久しぶりに見た。
街のあかりの数だけの人の営みがあり、街のあかりの分だけシアワセの数がある
昔聞いた言葉。
街のあかりの分だけシアワセの数がある訳ではなく
あのあかりの中には悲しいあかりもあるということを知ったとき
シアワセのカタチとは一体なんだろうと思ったことがあった。
その疑問はまだ解き明かされていない。

ただひとつだけ明確なのは
人が生きている間に経験するだろう普通のことを普通に経験した上で
結果的に自分には要らないものだった
と言える人はとてもシアワセだということ。
普通のことを普通に経験できるということは、それだけでシアワセだということ。
人生のイレギュラーばかりを経験して普通の経験ができていないのは
ある意味恐ろしくシアワセではない。

普通のことを普通に経験しながら巻き起こるイレギュラーな経験ならば
それがマイナス要素でもきっと打破できるのだろうし、
実際打破できている人をたくさん知っている。
普通に生まれ、学び、恋をして、伴侶を得て家族を持ち、奔走しながら生涯を終える
その中で、さまざまな困難に遭遇したときに
根底にある普通のことをバネにして乗り越えていく…
また、途中で自分にとっては必要ないものだったと判断して伴侶と離別する人もいる。
すべて経験と実績の結果で随時判断ができているのは
未経験の想像での判断よりもとても気持ち的にシアワセだと思う。

シアワセのカタチを語るには
前提としてその普通ラインというものがあって初めて語れるのかもしれない。
そのスタートラインにすら立ててない自分が
不幸の極みかと言われるとそうではない。
ただ、とても薄っぺらでどうしようもないなぁという虚無感は否めない。

このブログを始めた頃の
あの人間が大好きだった自分がまるで別人のような錯覚にすら陥る。

それでも 一握りの絶対に信頼できる人がいてくれていることを知っているから
私はシアワセのカタチを考えることができるんだということには
とても感謝している。
シアワセのカタチというものは
私の生涯の課題なのかもしれない。
posted by Shara at 04:09| Comment(0) | TrackBack(0) | I think so… | 更新情報をチェックする
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