2015年05月05日

月と太陽と護り

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護り石が増えました。
これで準備は整ったと言われても、イマイチピンときません。
物事には時期とタイミングがあるといいますが、それが「今」ということに
普通に生きているとなかなか気づきません。
気づいたら、あぁあれが分岐点だったのだなと後にわかることが大半です。

お見通しだったらきっと楽だろうなと思ったこともありますが、
実際お見通しになってしまうと、見たくないものまで見てしまいます。
知らなくていいことまで知ってしまうと、人は苦しくなります。
自分の知りたいことだけをお見通しなんて都合のいい話などどこにもありません。
それを押し通して人と接していると自分が壊れてしまいます。
それを考えると、ほどほどが一番いいし、「今」っていうタイミングが常にわからなくても仕方ないかなと…

それが人ってものなのかなと。
だから、人は何かを信じていたいし
神様や仏様に問うてみたりするものなのかなと思いました。
なので、お護りがひとつ増えるのも悪くないことかなと最近思えてきました。


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今日の未明、満月の下でブレスレットを重ねてなじんでもらいました。
「あ…龍が玉を掴んだ」
そんなことを言われて、車の窓の外を見ると
月明かりに照らされた雲。
ちょうど龍が満月を掴んでいるように見えました。
明け方前の月明かり 凛とした空気 時折走る風
写真では残せないものがたくさんなので、携帯で撮った写真だけ見ても伝わらないと思います。
体感の重要性です。
数日前も、十三夜の月の空に龍が遊ぶような光景を夜空に見ました。
とても不思議な それでいて神々しい光景。
偶然と言ってしまえばそれまでだし、モノは言いようと言ってしまえばそれまでですが、
それではあまりにも人生は味気ないものです。


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東の空が朝焼けに染まる頃、西の空には輝きが白に変わる満月の姿を
しばらく黙って見つめていました。
そういえば 雲に遮られることなく沈む夕日を見たあと
東の空に大きな美しい満月を眺めたこともありました。
「月と太陽のランデブーだ」
そんな言葉を横で聞きながら、あっという間に朝がやってきました。

当たり前の朝と当たり前の夜を何度もくぐり抜けてやっと巡り逢う丸い月と太陽の姿。
「刻は満ちた 今こそー」
すっかり日が昇り日常に戻った私に 東側から便りが届き
「今」ということの意味を考え込んだ1日でした。
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2015年04月25日

日々を丁寧に…

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今年に入って、目が回るほどのいろんなことがあって、
まぁよくこんな短期間にいろんな経験をしたもんだと思います。
そして、時折連れ出してもらって、特別何も話さず 特別何をする訳でもなく
ただただ景色を眺めている時間というものが、とても貴重で大切なものになりました。

面白いもので、そういう時というのは、とても夕日が美しかったり
出向いているときは雨でも、急に雨が上がって陽が射してきたり、
月がとてもきれいだったり、朝焼けがとても美しく雲海が薄紫に染まったり。。。

「その人と一緒だからこそ、すばらしい世界が見えるのですよ。
他の組み合わせだとその景色は見られません。
その人と他の人では見れないし、他の人とあなたの組み合わせでも見ることはできないのです。
相手を思いやることを忘れず、恐れることなく共に進んでいけば
もっとすばらしい世界が待ち構えていますよ。大丈夫。信じて進みなさい」
今日、ある方がそんなことを言いました。

たくさんの奇跡的なことやきれいなものを共有しながら
その先にあるすばらしい世界ってものが何なのか知りたいな…
そんなことを思ってしまいました。


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2015年04月10日

寝て考えること

とってもとってもご無沙汰にしておりました。
といっても、書くことが何もなかった訳ではなく。。。
むしろたくさんありすぎて…

結局かけずじまいだったという話です。

こうやって久々に自分のことをゆっくり考えるのが、療養中ってのも皮肉な話ですが、
ゆっくりと考える時間をもらったと思うようにして、最近を過ごしています。

この世の理というものは面白いもので、必ずすべてに意味がある
その理を外れてでも何かを成し遂げるということに意義を見いだすというものは
人の驕りのようなもの
結局は、人の及ばないところの理に常に見つめられている
他人に胸を張って言えないようなことを慎む
何か大きなことをしなくとも、それだけで充分なのです

先日、そんなことを言われました。
似たようなことを友達にも言われたことがあります。
確かに、人に迷惑をかけないとか、胸を張って言えないことをするなとか
昔からいろんな人が普通に教えてくれていた気がします。
もちろん、生きてたら言いたくないことや隠し事のいくつかくらいあります。
でも、それで誰かが迷惑をしたり悲しんだり周囲が後ろ指をさすようなものではない訳で。。。

そう考えたら、まぁまずまずの生き方ができているのかなぁ…と思いました。
もちろん欲を出せばキリがないし、もっと親孝行のひとつでも…なんてことは
本当に言い出したらキリがないのですが。

とりあえずこの安静期間を無事に終えたら、何か動きたいな…
動く時には、先日言われた言葉を忘れないようにしたいな…と
そんなことを考えています。
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2014年08月31日

鍵と鍵穴を一致させる旅

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出張中に見つけたアンティークショップで、鍵を見つけた。
どこかの鍵。
アメリカから入ってきたらしいこの鍵。

同じものがないいくつかのアンティークの鍵のうちのこれを選んでみた。

いろんなカタチのいろんな鍵の中からなぜこれを選んだのか
自分でもわからない。
ひとつとして同じ凹みがない鍵の中から 私はこれを選んだ。
ひょっとしたら
私が選んだのではなく、鍵が私を選んでくれたのかもしれない。


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最近思うのは
人の一生って、鍵が鍵穴を探すような感じなのかもしれないということ。
もちろん、鍵穴のあるドアにすでに違う鍵が刺さっていて
永遠に開かないドアのものも この世にはたくさんある。
じっと鍵が辿り着くのを待ち続けているドアもたくさん…
そして、ドアを開けるために流離う鍵もたくさんある…
そんな気がしてきた。

一体この世界で、どれだけの鍵が扉を開けることができているのだろう…?
この世界でどれだけの鍵穴が、たったひとつの鍵と巡り逢えて
扉を開けることができているのだろう…?
そして、
鍵と鍵穴が微妙に違う違和感を抱えたまま
気づかないふりをして生きている人がどれだけいるのだろう…?

長い間、帰る「家」のない私は
時間の流れに揺蕩いながら、居場所を変えて 部屋を変えて…
ずっとそんな風に生きてきてきたような気がする。
なので、機会の減った たまの出張でのホテル滞在の時間が
寂しいと思いながらも心地よいような そんな気持ちすらする。
そうして、ふと「帰る家」が欲しいと思うことがある。

でも、私はまだ自分の鍵で開けることができるドアを見つけられていない…
その悲しい現実に ちょっとだけ辛くなる。

居場所があるようで実はないという生活。
それが堪らなくイヤで切ないというまでの感覚はないけれど、
ふと 家に入れない私がとても悲しく感じる。


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先日、ある人の記事を読んだ。
器がひとつ 大きな石 小さな石 砂 水
大学の講義の話だった。

教授は生徒に、器に大きな石を入れるように言った。
器はあっという間にいっぱいになって、入らなくなったと生徒が言う。
すると教授は、小さな石を大きな石の隙間に入れていくようにと言った。
すると、大きな石でいっぱいだったはずの器に小さな石が入った。
そして、小さな石も入らなくなったとき、また生徒がいっぱいになって入らないと言った。
今度は大きな石と小さな石の間を埋めるように砂を注ぐように言った。
大きな石と小さな石で器がいっぱいだったはずなのに、砂が隙間に入っていった。
いよいよ砂も隙間に詰まってしまい器には何も入らないと生徒が言った。
教授は水の入ったボトルを出して、石と砂のは言った器に水を注ぐようにと言った。
何も入らないと思っていた器に水は吸い込まれるように入っていった。

つまり 器は人の一生を表した器
大きな石は自分にとってなくてはならないもの
自分が自分らしくあるために絶対に必要なもの。
小さな石は 大きな石の次に大事なもの。
例えば仕事だったり、人との関わりだったり
大きな石を守るために必要なもの。
そして砂は日々のささいなこと、
取るになりないものかもしれないけれど、心に残る日常の何か
人間の一生をカタチに例えた話。
そして、最後に注がれた水
どんなに時間がなくて忙しくても、気持ちが穏やかでなくても
もういっぱいいっぱいだと悩んでいても
誰かと一杯のコーヒーを飲むくらいのゆとりは 実は常にあるのだということを忘れないこと。
どんなにめいっぱいでも、友人とお茶を飲む時間というものは必ずあるということを
忘れてはいけないということ。

私も実際に器と石のかわりに貝殻とシーグラスと砂と水を用意して
自分で試してみたけれど…
私のとっての大きな石ってなんだろう…?
と 立ち止まってしまった。
何度やっても自分にとっての大きな石がなんであるのかまだわからない…
小さな石は気の許せる人や友達。あと生きる糧を得るための仕事。
砂は日常の摩擦。

私は生きているうちに、大きな石がなんであるのかわかるんだろうか?
そんなことを思ったら苦笑いしか出てこなかった。。。


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アンティークの鍵にもうひとつ鍵をつけて
C-moonのナイトアイズで鍵を括り付けた。

私のとっての大きな石はきっとドアの鍵穴。
そして、
誰かのたったひとつの鍵のための鍵穴。

この鍵で開く扉が一体どこにあるんだろうか…
いつか私のドアが誰かの鍵で開く日が来るんだろうか?
今夜は少し長い夜になりそうな気がする。
posted by Shara at 00:44| Comment(0) | TrackBack(0) | I think so… | 更新情報をチェックする

2013年12月18日

シアワセのカタチ

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ずっと思っていたことだけれど、
カタチのあるシアワセって好きだった。
もらった指輪だったり、ちょっとしたものだったり
それに関連したものを見るとその時のシアワセな気持ちがよみがえるから。
大切な人にモノを選ぶ時もシアワセな気持ちになる。
それを喜んでもらって使ってもらえていると、
カタチとしてインプットされているのかなと思う。
今もそれはあまり変わっていないかもしれない。

この言葉がひっくり返ると 一般的には意味が大きく変わってくる訳で…
シアワセのカタチって…
って誰かに聞くと、大抵
「愛するのがシアワセか 愛されるのがシアワセか」と返ってくる。
もちろん愛し愛されるのが理想型だけれど、
人間には比率がある。
自分と同じ分だけ相手が自分のことを考えていることは
とても稀であるということも知っている。
その比率の多さによって 愛してるのか愛されてるのかに分けられるのかもしれない。

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愛してる比率の高い人は、副作用として愛を押し付ける傾向に陥り
愛されている比率の高い人は、副作用として愛に麻痺して孤独を憧憬する
最近自分を分析していたついでに出てきた答え。
もちろんそれが世情への結論にあてはまるとは思わないけれど
少なくとも私の周囲で巻き起こるいろんなことを俯瞰で見るとそんな結論が出てきた。
自分自身 どちらの傾向にあるかと言われると
前者の方だと思う。
真の孤独の恐ろしさを知ると、孤独を憧憬している人がとてもナルシストに見えてくるのも
正直なところない訳ではない。
と同時に、真の孤独など知る必要はあまりなく
むしろ知らないでいいのならそのまま生涯を終えた方がよいと思うので
どちらがシアワセなのかというと やはり後者なのかもしれない。

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クリスマスカラーに彩られたスカイツリーを先日久しぶりに見た。
街のあかりの数だけの人の営みがあり、街のあかりの分だけシアワセの数がある
昔聞いた言葉。
街のあかりの分だけシアワセの数がある訳ではなく
あのあかりの中には悲しいあかりもあるということを知ったとき
シアワセのカタチとは一体なんだろうと思ったことがあった。
その疑問はまだ解き明かされていない。

ただひとつだけ明確なのは
人が生きている間に経験するだろう普通のことを普通に経験した上で
結果的に自分には要らないものだった
と言える人はとてもシアワセだということ。
普通のことを普通に経験できるということは、それだけでシアワセだということ。
人生のイレギュラーばかりを経験して普通の経験ができていないのは
ある意味恐ろしくシアワセではない。

普通のことを普通に経験しながら巻き起こるイレギュラーな経験ならば
それがマイナス要素でもきっと打破できるのだろうし、
実際打破できている人をたくさん知っている。
普通に生まれ、学び、恋をして、伴侶を得て家族を持ち、奔走しながら生涯を終える
その中で、さまざまな困難に遭遇したときに
根底にある普通のことをバネにして乗り越えていく…
また、途中で自分にとっては必要ないものだったと判断して伴侶と離別する人もいる。
すべて経験と実績の結果で随時判断ができているのは
未経験の想像での判断よりもとても気持ち的にシアワセだと思う。

シアワセのカタチを語るには
前提としてその普通ラインというものがあって初めて語れるのかもしれない。
そのスタートラインにすら立ててない自分が
不幸の極みかと言われるとそうではない。
ただ、とても薄っぺらでどうしようもないなぁという虚無感は否めない。

このブログを始めた頃の
あの人間が大好きだった自分がまるで別人のような錯覚にすら陥る。

それでも 一握りの絶対に信頼できる人がいてくれていることを知っているから
私はシアワセのカタチを考えることができるんだということには
とても感謝している。
シアワセのカタチというものは
私の生涯の課題なのかもしれない。
posted by Shara at 04:09| Comment(0) | TrackBack(0) | I think so… | 更新情報をチェックする

2013年08月16日

自分の命より大切な命の存在があるということ


今日は少し真面目に
そして少し重たい話になると思う。

こうやって記事を綴り続けてきた当初は、
まだブログという言葉が珍しい時代だった。
ウェブログという言葉がまだ残っていた。

更新がまばらになってきたのにも理由はある。
このブログは私が個人的に綴るところであるから、
私が更新できなければ、更新はままならない。

これが他のブログとこのブログの違い。

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8月15日 久しぶりに、誰かと出かけた。
仕事ではない。


何でも話せる人。

以前その人は私に
「ソウルメイトなんだろうね」
そう言った。

あれからずいぶん月日が過ぎて
互いにいろいろな経験を経て

魂が泣き叫ぶという 言葉ではうまく表せない想いを何度もした。

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目に見える景色は
まぎれもなく現在なのだけれど、
ふたりの間の時間は出会った頃のままだということがわかったとき
どうしようもないなんともいえない気持ちに襲われて、
自分を抑えるのがつらくてつらくてどうしようもなかった。

時間軸の上をただ進むしかないという
誰もがあらがうことのできない現実の中
それを超越するような現象があるということは
きっとにわかには信じがたいことだと思う。
けれど
それを一度体験してしまうと、すべてを超越してしまう
理屈抜きという言葉がこれ以上適切なものはないと思ってしまう。

カタチあるものはいつか朽ちる。
それは肉体もそうであり、誰もあらがうことはできない。

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19の頃の私に向けてくれた優しさを同じように向けてくれるその人は
あの時と同じように、私にお守りを置いて
また自分の時間軸の中に戻っていった。
私もまた私の時間軸の中に。

私の時間軸はそう長く伸びているとは思えない。
だから、どうか
あの人の苦悩を私に引き受けさせてください。
あの人が穏やかに、安らかに
自分の時間軸の上を歩んでいけるように。

こんなにもたくさんの人が長い時代に生きていて、
その中で互いに認めあう魂の片翼に出会うことができたということは
それだけでも価値のあることだと思う。
自分の本当の片翼を見つけるのは、
砂漠で一粒のダイヤモンドを探すに等しいと言う著者もいる。
私は生きている間に、その片翼に巡り会い 
互いが互いの翼だと認めあうことができた。
それだけでも充分であり、生きてきてよかったと思う。

だから あの人が今も悩み続け、これから遭遇する不安や苦悩は
すべて私が引き受けられるものならそうしたいと…

そう願いながらまたはじまる朝をアトリエのベランダから眺めていた。
posted by Shara at 04:10| Comment(0) | TrackBack(0) | Life is beautiful! | 更新情報をチェックする

2013年06月18日

ありがとう

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今年も地道にやっています。
県の伝統工芸品とのコラボ団扇。
今回はくまモンも一緒に登場しています。

東日本の動物たちに
地元の愛護センターのために
少しでも力になれればと、収益の一部をこつこつと送っています。

それもこれも、わんたろうさんに会わなかったら
やっていなかっただろうと思います。
初代、二代目一太郎、それにパピー君がいたから
視線がそちらへも向いたのだと思います。

今日はパピー君の四十九日でした。

ずっとアトリエにいてくれた初代も
パピー君と一緒だったら、寂しくないだろうと思い、
一緒に土に還っていくことにしました。

長かったような短かったような…
二代目が居てくれていても、初代と二代目はやはり別で…
でも、いつまでも引き止めていても初代も荷が重いかなと思いつつも
やっぱり傍にいてもらいたくて、
ずっと引き止めていました。

実家の片隅の、木漏れ日が差し込む場所に
二人並んで各々桐箱に入ってもらって土に還しました。

二代目もじっと見守っていました。
外猫のミーも、ちょっと離れた所から見守っていました。
立派な よい形の小ぶりな岩を
パピー君と初代のと 父が用意していてくれていました。

これからは実家で、毎日両親に見守られながら
四季を感じながら
自然の流れに身を任せて土に還り、石碑だけが残ることになります。

いつも二代目のことを気にかけてくださっている方が、
ご供養のケーキを二代目に下さいました。
今年、長女担当の愛犬を亡くされた方で、
本当に分け隔てなく犬をこよなく愛する 素敵な方です。

時間を超えて たくさんの方々に
本当に愛されて、お世話になって…
ありがたいことだと本当に思います。

もちろん
ここに来てくださって、コメントを残してくださっている方々にも…
こんなに不定期な更新にもかかわらず、
ずっと読み続けてくださっている方々…

ほんとうに ありがとうございます。

初代はパピー君と土に還りました。
本当にありがとうございました。
二代目はこれからもずっと 命の限りバディとして共に過ごしていくことでしょう。
これからもよろしくお願いします。


初代一太郎を愛してくださった方々へ
この場を借りて ご報告いたします。

posted by Shara at 23:45| Comment(0) | TrackBack(0) | Best Partner | 更新情報をチェックする
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